iPadと紙の間にある、小さな断絶

私立高校を中心にiPadを導入している教室では、iPadにノートをとっている景色が珍しくなくなっています。しかしパソコンやスマートフォン、タブレットに囲まれて暮らしていても、紙のノートを手放せない、という人も少なくないでしょう。

ただ、デジタルと紙が同じ机にあるほど、両者の境目も目につきます。iPad上の資料へ書き込み、そのまま紙へメモを取ろうとすると、スタイラスとボールペンを持ち替えなければならない。ほんの数秒ですが、思考の流れには小さな断絶になります。

  • 紙にはインクが出て、iPadにはインクが出ない、魔法のようなペン先のスタイラス・ボールペン「スタイラスツーウェイ」。

    紙にはインクが出て、iPadにはインクが出ない、魔法のようなペン先のスタイラス・ボールペン「スタイラスツーウェイ」。

ゼブラとエレコムが共同開発した「スタイラスツーウェイ」は、その境目をなくそうとした製品です。

同じ0.5㎜のペン先で、紙にはジェルインクで書き、iPadではインクを出さずに操作する。ペアリングやモード切り替えも必要ありません。その実現のために長い年月の研究開発を行なってきました。 面白いのは、この製品が「デジタルか、アナログか」という二者択一から生まれていないことです。

現実の仕事や学びは、すでに両方をシームレスに行き来しています。ならば、道具の側が人の行動に合わせればいい。ここに、ゼブラのR&Dを読み解く最初の手がかりがあります。

  • 東京都新宿区にあるゼブラ本社に併設されている施設。新製品の企画や技術開発、他分野とのコラボレーションを通じて「“書く”未来」の研究開発が進む。

    東京都新宿区にあるゼブラ本社に併設されている施設。新製品の企画や技術開発、他分野とのコラボレーションを通じて「“書く”未来」の研究開発が進む。

ペンを分解すると、最後に「人」が残る

ゼブラでは、ペンそのものに対する研究は、大きく分けて3つあります。それは①本体の機構、②中芯とインク、③先端のチップ、です。

線の濃さや太さ、滑らかさ、乾き方、耐久性。1本のペンとして我々が受け取るものの背後には、それぞれの要素が長年研究され、組み合わされていました。

ところが、ゼブラの研究の現場は、そこで終わりません。

  • 新規事業推進本部 副部長の岩間卓吾氏。

    新規事業推進本部 副部長の岩間卓吾氏。

「筆記具を使う人に、どんな効果が生まれるのか。手書きの価値は何なのか。そこまで含めて『書くことの研究』だと捉えています」と岩間さんは話します。

書くことは、あまりにも日常へ溶け込んでいます。

ペンを持つ角度や、紙に触れたときの音、指先へ返ってくる振動を、普段はほとんど意識しません。しかし、その無意識の中にこそ、研究すべき余地が残っている、というのです。

例えば、同じように線が引けても、色が薄いと「書き心地が悪い」と感じることがある。目で見た線の濃さが、指先の感覚にまで影響するからです。実は、視覚、触覚、聴覚は別々に働くのではなく、一つの「書き心地」をつくっています。

ゼブラにおける研究とは、当たり前を細かく分解することです。しかし分解した先にもう一度、人の体験を置き直している。部品を研究しながら、最後には「この人はどう感じるか」へ戻ってくるのです。

微細な振動を、価値へ翻訳する

ボールペンで文字を書くと、紙とペン先の接触によって、内部に微細な振動が生まれます。目には見えなくても、その振動は指へ伝わり、長く書くときの負担や不快感につながります。

この研究から生まれたのが、振動を制御するボールペン「ブレン」。

重要なのは、研究結果をそのまま「振動を何%低減した」という技術説明で終わらせなかったことです。企画担当者は、それを「ブレを抑え、ストレスを感じにくく書ける」という、使う人が理解できる価値へ翻訳しました。

R&Dの研究成果として新しい現象を見つけるだけでは製品になりません。技術者が見つけた差を、生活者が感じ取れる意味へ変える必要があります。ゼブラのものづくりでは、研究、企画、設計、伝え方が一本の線でつながっています。

これは、派手な新機能を足すこととは少し違います。人が気づかないほど小さなストレスを見つけ、なくなったときに初めて「なんだか書きやすい」と感じてもらう。価値創造は、目立つ機能をつくることだけではなく、無意識の摩擦を静かに消すことでもあるのです。

  • 3度の失敗を乗り越えてヒット商品となった、おだやかな色のインクのマーカーペン「マイルドライナー」。全40色を揃え、Instagramでもその活用が日々共有されている。

    3度の失敗を乗り越えてヒット商品となった、おだやかな色のインクのマーカーペン「マイルドライナー」。全40色を揃え、Instagramでもその活用が日々共有されている。

3度の失敗が、マイルドライナーの居場所を変えた

価値は、研究室だけで完成するわけでもありません。それを象徴するのが、「マイルドライナー」の歩みです。

蛍光ペンは、明るく、濃く、目立つもの。それが業界の常識でした。一方で、「目がチカチカする」というユーザーの声もあった。そこでゼブラは、目に優しい穏やかな色のラインマーカーを開発します。

ところが、最初から受け入れられたわけではありませんでした。岩間さんたちによれば、「3度失敗した」そうです。「色が薄い」「地味だ」という蛍光ペンとはこうあるべき、という評価を覆すに至らなかったのです。

転機は、技術を変えるだけでなく、商品の居場所を変えたことでした。

事務用品として「目立たせる道具」を競うのではなく、ノートや手帳を自分らしく彩る道具として見せ直した。女性を意識したデザインと発信へ切り替え、Instagramなどでユーザーの使い方が広がると、マイルドライナーは現在40色をそろえるシリーズへ育ちました。

さらに、ユーザーは開発側が想定していなかった使い方も見つけます。例えばグレーで文字を完全に消さず、いったん視界から外すように線を引き、あとで振り返る。製品の持ち味が、使う人の工夫によって増えていくのです。

3度の失敗を、ニーズがないという結論にしなかった。技術の価値が伝わる文脈を探し直し、世に出したあともユーザーから学び続ける。マイルドライナーの物語は、価値創造が「発明して売る」という一方通行の仕事ではないことを教えてくれます。

  • スタイラスツーウェイの研究過程における試作。上から、既存のスタイラスを改造して実装→既存のペンに電気的な部品を組み込んで実装→内部構造をわかりやすくするため、3Dプリンタで試作した巨大モデル→製品。

    スタイラスツーウェイの研究過程における試作。上から、既存のスタイラスを改造して実装→既存のペンに電気的な部品を組み込んで実装→内部構造をわかりやすくするため、3Dプリンタで試作した巨大モデル→製品。

0.5㎜を譲らない。70種類の試行錯誤

「スタイラスツーウェイ」も、最初は社内の思いつきから始まりました。市販品を改造し、3Dプリンターでチップをつくり、インクとペン先を約70種類試し、さらにそこからインクを400種類以上試作。構想から製品化までには5年を要し、途中からエレコムとの共同開発へ発展しました。

最大の難所は、同じボールペンの先端を、紙とiPadの両方で成立させることでした。

紙の上では、先端のボールが回転してインクを送り出します。一方、ガラスの画面ではボールを回転させず、インクを出さないようにする必要がある。そこで開発された専用の「BSインク」は、一般的なインクとは逆に、潤滑性をあえて下げて適度なブレーキをかけている。

  • ガラス面でボールが回りにくくするため、ジェルインクの粘度を調整した専用開発の「BSインク」(中央のボトル)を開発した。

    ガラス面でボールが回りにくくするため、ジェルインクの粘度を調整した専用開発の「BSインク」(中央のボトル)を開発した。

電気を流したときにインクへ異変が起きないか、顕微鏡で確かめる。従来の筆記具開発では必要なかった実験まで行われました。

共同開発では、安定したiPad筆記の実現のため、エレコムからは0.7㎜のボールを使う案も出ました。しかしゼブラは、日常の筆記具としての書き心地を守るため、0.5㎜にこだわったといいます。

エレコムは電子機器として成立させる知見を持ち、ゼブラは筆記具として譲れない感覚を持つ。相手に合わせて専門性を薄めるのではなく、それぞれの専門性を持ち寄り、矛盾する条件を解いていく。 その結果、ノックすると電源が入り、ペアリングをせず、紙とiPadを意識せず行き来できる一本が生まれました。

使う側には見えない仕組みほど、製品体験を左右します。このプロダクトの本質は「紙にもiPadにも書ける」というわかりやすい価値です。しかし、その自然な挙動を支えているのは、70種類の試行錯誤や、0.5㎜をめぐる譲らない想いです。

  • 加速度センサーなどを組み込んだ「Kakulog」。書くことのデータを取得できるようにし、これまでになかった教育や医療、ウェルネス分野での研究の道を切り開こうとしている。

    加速度センサーなどを組み込んだ「Kakulog」。書くことのデータを取得できるようにし、これまでになかった教育や医療、ウェルネス分野での研究の道を切り開こうとしている。

筆記具の会社が、医療へ向かう理由

ゼブラは2026年、「Shimauma Lab.」を本格始動しました。

掲げるミッションは、「従来の筆記具の枠を超え、書くことから生まれる価値を創出する」ことです。

その中核にあるのが、センサーを搭載したペン「Kakulog」です。紙へ普通に書きながら、速度、角度、筆圧、時間などをデータとして取得する。完成した文字だけでなく、どのように書いたのかというプロセスを可視化できます。

このデータは、教育やウェルネスだけでなく、医療にもつながり始めています。ゼブラは順天堂大学、アラヤと共同で、筆記動作からパーキンソン病の特徴を捉える基礎研究を進めました。検査のために特別な機械へ向かうのではなく、日常的な「書く」という行為の中から、心身の変化を捉えられるかもしれない。実用化にはなお研究が必要ですが、筆記具メーカーだからこそ持てる問いです。

  • 新規事業推進本部の田中義明氏。

    新規事業推進本部の田中義明氏。

田中さんは、「筆記具のゼブラが、なぜ医療に取り組むのか。その疑問に、研究成果で答えを出していきたい」と話しました。

ペンの会社が医療へ進むと聞けば、遠くへ事業を広げたようにも見えます。しかし、研究の起点は変わっていません。人はどのように手を動かし、どんな状態のときに、その動きが変わるのか。ペン先を研究してきた視線を、そのまま人へ伸ばした結果なのです。

「書く」の先に、何が生まれるか

デジタル化によって、手で書く機会は減っています。だからといって、ゼブラはアナログを守るためにデジタルを敵に置いていません。紙とiPadをつなぐスタイラスツーウェイも、筆記動作をデータ化するKakulogも、アナログとデジタルの長所を組み合わせる試みです。

僕たちは、書くことを記録や伝達の手段として考えがちです。しかし、記録だけならばキーボードや音声入力の方が速い場面もあります。それでも手で書くのは、考えを整理したり、覚えたり、気持ちを落ち着かせたり、誰かへ思いを渡したりする働きがあるからでしょう。

岩間さんは、Shimauma Lab.の未来について、こんな主旨の言葉を残しました。

「書くことで笑顔が生まれたり、書いたことが感謝につながったりする。書く行為そのものより、その先に何が生まれるのかを見ていきたい」

ゼブラのR&Dは、本体、インク、チップから始まり、書き心地へ、人の感覚へ、学びや健康、医療へと対象を広げています。けれど、拡散しているわけではありません。中心には一貫して「書く人」がいます。 価値創造とは、まったく新しいものを突然発明することだけではありません。あまりにも身近で見過ごしていた行為を見つめ直し、そこに眠る意味を科学し、使う人とともに育て、社会の役に立つ形へつなぐことでもあります。

取材を終えて机に戻り、ノートへペンを走らせると、いつもの一本が少し違って見えました。僕たちは線を残しているだけではない。その先にある思考や感情、人との関係まで書いているのかもしれません。

取材・文:松村太郎 写真:幸田玲音 編集:OCEANS編集部