きゅうり1本から始まる、安全保障の話
子どもがよく食べるので、きゅうりはわが家でも身近な野菜です。取材中、僕が「安くても1本70円くらいになりましたよね」と口にすると、AGRIST代表の斎藤潤一さんは、きゅうりだけでも大きな産業であることを数字で説明してくれました。
スーパーで感じる値上がりは、家計の話です。しかし、もう少し奥へ進むと、誰が作るのか、肥料や飼料、燃料を確保できるのか、どこから運ぶのか、来年も同じように買えるのか、という問題につながります。ここまで来ると、これは農業だけの話ではありません。食料安全保障の話です。
農林水産省の統計によると、日本の2024年度のカロリーベース食料自給率は38%。長く、日本の食を語る代表的な数字として使われてきました。一方、24年に改正された食料・農業・農村基本法は、「国民一人一人の食料安全保障」を基本理念の中心に置きました。さらに25年に閣議決定された基本計画は、平時からの食料安全保障を実現するため、自給率に加えて、備蓄、安定輸入、農地、人材、技術、価格、食品へのアクセスまでを目標とKPIで捉えています。
つまり、自給率が重要な指標でなくなったわけではありません。自給率というひとつの物差しを、食べ物を作り、運び、誰もが合理的な価格で入手できる状態という、より広い設計図の中に置き直したのです。
この広がりが重要です。戦争や大災害のときだけでなく、平時に近所のスーパーがなくなることや、価格が上がって必要な食料を買えない人が出ることも、安全保障の問題に含まれます。食料安全保障は国境の話であると同時に、暮らしの距離と財布の話でもあります。
「人間とどちらが速いかなんて、最初から争っていない」
AGRISTは19年、宮崎県新富町で生まれました。農家との勉強会で繰り返し聞いたのは、「収穫する人が足りない」という切実な声でした。そこで開発したのが、AIで収穫適期を見分けるピーマンやきゅうりの自動収穫ロボットです。
ロボットと聞くと、すぐに「人間より速いのか」「仕事を奪わないのか」と考えてしまいがちです。しかし斎藤さんは、そこを明確に否定します。すでに、そうした心配をしている段階ではない、と危機感を募らせます。
「収穫ロボットの話になると、人間とどちらが速いのかと聞かれます。私たちが目指すのは人と競うロボットではありません。平均年齢67.7歳の農家の労働を補助することが大事なんです」
25年農林業センサスの確定値では、個人経営体の基幹的農業従事者は103万6000人。5年間で24%減り、平均年齢は67.7歳です。ロボット導入の目的は、人を締め出すことではなく、減っていく人だけでは支えられない仕事を引き受け、農業を続けられる状態をつくることにあります。
ここで面白い変化が起きます。ロボットが単純な収穫作業の一部を担うと、現場の人たちは「次に何を改善するか」を話す、時間の余裕が持てるようになったといいます。自動化が生み出す価値は、作業時間の短縮だけではありません。人間の仕事を、判断と改善へ移していくことにもあります。
R&Dは“農場のすぐ横”だからこそ、改善が進む
AGRISTのR&Dで最も特徴的なのは、開発現場が農場の中にあることです。
宮崎では、ビニールハウスのすぐ横に開発拠点を置き、フィールドエンジニアが自ら作物を育てながら、ロボットを動かし、データを取り、改良します。 斎藤さんは投資家に、「世界一、改善が早い会社です」と説明してきました。
会議室で仕様を決め、完成した機械を最後に農場へ持ち込む。これでは、通路の幅、枝葉の茂り方、湿度、泥、作物の個体差といった、現場の変数に対応できません。作物によっては栽培の検証機会が年に一度か二度しかなく、開発の失敗はそのまま一年の遅れになり得ます。
だからAGRISTでは、農家、農場、ロボット、AIを最初から分けません。
農場の中に開発現場を置き、エンジニア自身もフィールドエンジニアとしてデータを取り、農産物を育てる。斎藤さんは、こうした「実践型研究開発」にAGRISTの強みがあると説明します。
この方向性は政策とも重なります。25年の基本計画も、自動収穫機を開発するだけでなく、収穫しやすい品種、機械が通れる作業道、スマート技術に適した生産・流通方式まで一体で変える必要性を示しています。
これは、製品を開発してから社会へ持ち込むR&Dではありません。社会の中で使いながら、製品と仕事の仕組みを同時に変えていくR&Dです。AGRISTが研究しているのは、収穫ロボット単体というより、農業経営そのものだと見るべきでしょう。
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AGRIST代表取締役の斎藤潤一氏。シリコンバレーでスタートアップを経験し、スピードと資本の力を肌で経験した一方、2011年の東日本大震災をきっかけに「社会をより良くすること」に自分の力を使いたいと考えるようになったという。19年にAGRISTを創業。AIとロボットで食料安全保障問題の解決に挑戦している。
「カルチャーを大事にしないアグリは潰れる」
現場に近いR&Dは、失敗も隠しません。AGRISTは農場で、ピーマンより高く販売できるフルーツパプリカに挑戦しました。ところが、暑い時期の栽培で害虫に悩まされ、思うようにいかなかった。
どれだけエンジニアリングが優れていても、その土地特有の気候や長年蓄積された経験を前提に置かなければ、うまくいかない。そんな経験もまた、農場の横で研究開発を行うAGRISTならではの気づきでした。
一方で斎藤さんは、AIを使えば、ある土地の過去の気象や栽培に関する大量の情報を短時間で参照できるようになる可能性も指摘します。新しく農業へ入る人が、先人と同じ失敗を一から繰り返さず、その先の実験へ進めるかもしれません。AIが農家の知恵を不要にするのではなく、知恵へたどり着くまでの時間を短くする。そんな使い方です。
「農業は英語でアグリカルチャーです。カルチャーの部分を大事にしないアグリは潰れていく」
斎藤さんのこの言葉は、スマート農業の重要なメッセージといえます。再現可能にすることと、どこでも同じ作り方を押しつけることは違います。地域の気候、土、作物、働き方を学び、その違いを吸収できる仕組みにする。AGRISTの実践型R&Dは、標準化と地域性を両立させる試みでもあります。
「茨城は、単なるR&Dにとどまらない」。未来を実装する場所へ
その次の段階を担うのが、茨城県常総市の拠点です。AGRISTは23年から、常総市の次世代農業団地「アグリサイエンスバレー常総」に参画。国の農林水産省SBIR事業(中小企業イノベーション創出推進事業 フェーズ3)を活用した約11億円規模のプロジェクトとして、3haの用地に、ロボット、AI、農業用ハウスを組み合わせた大規模実証農場を整備しています。
斎藤さんは「厳密に言えば、茨城は単なるR&Dではない」と切り分け、R&Dを終えた技術を生産現場スケールで動かし、未来を実装する場所だと説明しました。
研究室で動いた技術と、産業として毎日動く仕組みの間には、大きな距離があります。農場を広げれば、収穫だけでなく、人の配置、電力、物流、販売、資金調達まで設計しなければなりません。技術的に可能であることと、事業として続くことは別だからです。
現在の3haは、その距離を埋めるための起点です。斎藤さんが常総での実証後に掲げる次の目標は「100ha、100億円」。ロボット、AI、ハウス、運営を組み合わせた農業パッケージを、国や企業、地域と連携しながら再現可能な形にし、茨城の周辺へ広げていく構想です。
東京圏という巨大な消費地の近くに、気候変動や物流の混乱、人手不足に耐えられる生産拠点を持つ。そこで技術と運営の型を磨き、別の地域でも使えるようにする。100ha、100億円という数字は、食料安全保障を技術の目標ではなく、社会の能力として形にするための北極星なのです。
ここで必要になるのは、AGRIST一社の研究開発費だけではありません。ハウスを整備する不動産、安定して電力を供給するエネルギー、収穫物を届ける物流、長期の投資を支える金融、地域の合意をつくる自治体が関わります。
農業のR&Dが食料安全保障を目的にした瞬間、研究開発の参加者も、農家とエンジニアだけでは足りなくなります。茨城の拠点は、技術の大規模実証農場である以上に、異なる産業が農業を共通課題として組み直される場所になりそうです。
もっとも、公的資金で大規模実証農場を整備しただけでは、社会実装とは呼べません。テスト販売の売上をすべて開発費に再投資し、自社でもリスクを背負いながら、省力化率や収量だけでなく、収益性、補助事業の終了後も続く採算、他地域での再現性まで示せるか。100haという将来構想へ進めるかどうかは、茨城でこの条件を証明できるかにかかっています。
「儲かる農業と言っている場合じゃない」
斎藤さんは以前、「儲かる農業」という言葉を前面に出していました。もちろん、利益が出なければ農業は続きませんし、新しい従事者の流入も見込めません。
しかし今は、「どちらが速いのか、いくら儲かるのかだけを言っている場合ではない」と話します。目指す言葉も、「サステナブルアグリカルチャー」、100年先も続く農業へ変わりました。これは、採算を軽視するという意味ではありません。むしろ逆です。食料安全保障を実現するには、補助金による実証で終わらず、農家、企業、自治体、金融、エネルギー、物流が、それぞれ継続できる事業として参加する必要があります。R&Dの対象が機械から農場へ、農場から地域の仕組みへと広がっているのです。
26年7月に閣議決定された日本成長戦略でも、フードテックは17の戦略分野のひとつに位置づけられました。政策の関心も、技術を生み出す研究支援だけでなく、官民投資を呼び込み、市場として育てる段階へ進んでいます。
「スーパーは、壮大なR&Dの箱です」
では、僕たち生活者は何をすればいいのでしょうか。斎藤さんは、スーパーの売り場を「壮大なR&Dの箱」と呼びました。何を選ぶ人が増えるかによって、つくられるもの、価格、技術への投資が変わるからです。
ただし、国産品を高くても無条件に買おう、という単純な話ではありません。合理的な価格で誰もが食料を入手できること自体が、食料安全保障に含まれます。スマート農業に求められるのは、国産品を特別な嗜好品にすることではなく、作る人の負担とコストを下げ、日常の選択肢として持続させることです。
食料安全保障という言葉は大きく、政策の話に聞こえます。しかし、その入口は、今夜スーパーで手に取るきゅうり一本にもあります。
AGRISTが茨城で実装しようとしているのは、野菜を採る機械だけではありません。100年先にも、食べ物をつくり、運び、僕たちが選べる社会を、持続可能な事業として築けるか。その答えが、茨城で問われます。
取材・文:松村太郎 写真提供:AGRIST 編集:OCEANS編集部





