雨に濡れた西湘バイパスを小田原へ。せっかくの取材日だが、空は朝からどんよりしている。この日最初に訪れたのは「江之浦測候所」。現代美術家・杉本博司氏が20年以上をかけて構想した、自身の創作活動の集大成ともいえるアート施設だ。相模湾を望む丘陵地に、ギャラリーや茶室、庭園など60を超す見どころが点在する。駐車場にクルマを停めても、空模様は変わらない。一帯は濃い霧に包まれ、海も空も白く霞んでいた。
そのまま「夏至光遥拝100メートルギャラリー」へ。大谷石の壁には、水平線を捉えた杉本氏の写真作品『海景』シリーズが並び、その反対側には長いガラス面が続く。晴れていれば、海に向かって伸びるギャラリーの先にも相模湾の水平線が望める。だがこの日は、その先が白い霧の中へ溶けていた。そこでディレクターの稲益智恵子さんが教えてくれたのが、杉本氏がこの土地に野外施設をつくった理由のひとつ。見渡す範囲に近代的な建物が入らず、太古の人々が見たような景色を体験してほしいと考えたという。この日の霧は、さらに人工物の気配を消していた。目に入るのは、木々と白い霧ばかり。水平線を隠していた霧が、ここでは少し違って見えた。
千利休の「待庵」を写した茶室「雨聴天(うちょうてん)」では、屋根にこの土地がみかん畑だった頃の道具小屋のトタンが使われている。強い雨が降ると、トタンを打つ音が美しく響く。そこから杉本氏が「雨聴天」と名付けたという。実際に雨の日に訪れると、その名が妙に腑に落ちた。
ひと通り見て回ったあと、正門近くの「Stone Age Cafe」へ。江之浦測候所の敷地は、文化施設に転用された部分を除けば、いまも多くが農地として残っている。カフェでは、その畑で育てた果実を使ったメニューも楽しめる。ここで小ぶりの黄金柑を使ったスカッシュをいただく。ひと口飲むと、柑橘の香りがすっと広がる。水平線は最後まで見えなかった。それでも、こんな日の江之浦も悪くない。
クルマで小田原の街中へ戻り、次に向かったのは「うつわ菜の花」。120年続く和菓子店の家に生まれた高橋台一氏が営むギャラリーだ。これまで個展を開いてきたのは、井上有一氏、黒田泰蔵氏、内田鋼一氏ら。美術館で出会うような作家たちの作品を、この場所で長く紹介してきた。
小田原はかつて、坂口安吾や辻潤ら作家・文化人が行き交った土地でもある。高橋氏自身も5歳頃から祖父の影響で骨董屋通いを始めた。ものを見る感覚は、そうして自然と身についていったという。とはいえ、作家を選ぶうえで、土地の縁は決め手ではない。では、作家と向き合う基準はどこにあるのか。高橋氏の答えは驚くほど簡単だ。「気に入って、好きだから付き合う」。書家の井上有一氏もそのひとりで、作品を長く追い、自ら書籍まで作った。作品を並べるだけではなく、作家との関係を続けていく。その積み重ねが、いまのうつわ菜の花を形づくってきた。
ギャラリーの設計は建築家・中村好文氏。室内と中庭がひと続きに感じられる親密な空間だ。江之浦では水平線が霧に消え、ここでは中庭に雨粒が落ちる。朝は少し恨めしかった空も、二つの場所を巡り終える頃には気にならなくなっていた。雨の日の小田原も、悪くない。
暮らしのそばに、本がある。真鶴の新しい風景
翌日は、打って変わって晴天。相模湾を横目に海沿いの道を走り、真鶴へ。半島に入ると、斜面に家々が重なり、その間を細い道が縫うように続く。この小さな港町には、書店がなくなった時期がある。けれど、いまは本にまつわる場所がいくつもある。まずはそのひとつを訪ねた。
2015年に移住した夫妻が立ち上げた「真鶴出版」は、出版と宿をひとつの拠点で営む、いわば「泊まれる出版社」だ。地域にまつわる本や冊子をつくりながら宿泊客を受け入れ、ゲストには町歩きの案内も行っている。
ここで一冊の本を手に入れた。真鶴町が2022年に発行し、真鶴出版が編集に携わった町案内読本『真鶴手帖』だ。飲食店や観光スポットを並べる一般的なガイドではない。海や森、石の文化、食、祭り、町の景観、暮らしや歴史。いくつもの切り口から、町そのものを一冊にまとめている。
背景にあるのが、約30年前につくられ、いまも町に受け継がれる景観のデザインコード『美の基準』だ。『真鶴手帖』もその考え方にならい、次の30年にも残る観光冊子を目指してつくられた。ページをめくりながら町を歩き、目の前の坂や路地と照らし合わせていくのも、この本の楽しみ方だ。
次に向かったのは、岩海岸の近くにある「道草書店」。店を始めるきっかけは、真鶴へ移住した店主夫妻が耳にした「本屋がなくて困っている」という町の人たちの声だった。そこで、まずはクルマに本を積んだ移動書店として活動し、2022年に現在の店を開いた。
店内には、リトルプレスから郷土書、文芸までが並ぶ。奥には、一箱ごとにオーナーが選んだ本やZINEなどを販売する「一箱本屋」のスペースもある。参加するのは町の人だけではなく、東京や横浜など遠方の人も多いという。
いまも本の注文に来る人は多く、新聞の書籍紹介欄の切り抜きを持参する人もいれば、タイトルをはっきり覚えておらず、店主と一緒に探す人もいる。話を聞いている最中にも、ひとりの客がやってきた。「本、お願いしたいんですけど」。店主は取材を止めて注文を受ける。ほんの短いやりとりにも、本を介した会話が自然に生まれていた。本を買う、頼む、誰かの選んだ一冊に出会う。ここでは、本との関わり方がひとつではない。
最後に訪れた「本と美容室 真鶴店」は、その名の通り美容室と書店がひとつになった場所だ。運営するアタシ社は、出版を軸に美容室も手がけている。書店単独で事業を続けるのが難しいという現実に対し、美容室と組み合わせることで、本を売る場所を成り立たせている。
美容室を利用した客が、そのまま本を買って帰ることも多く、本を目当てに訪れた人が髪を切ることもあるという。そもそも美容室は、ひとりの客がある程度の時間を過ごす場所でもある。そこに本があれば、髪を切るために訪れた人にも、思いがけない一冊との出会いが生まれる。美容室と書店がただ同居しているのではなく、どちらかを目当てに来た人が、もう一方にも触れる場所になっている。
一時は書店がなくなった真鶴に、いまは本と出会う入口がいくつもある。それも、一軒の書店が戻ってきたという話ではない。宿を備えた出版社、町の本屋、本のある美容室。町を知るために読む人もいれば、欲しい一冊を頼む人も、髪を切ったついでに手に取る人もいる。本が特別なものとして掲げられるのではなく、町で過ごす時間のすぐそばにある。その距離の近さが、いまの真鶴で本に出会う面白さになっている。
▼協力
江之浦測候所
神奈川県小田原市江之浦362-1
0465-42-9170
www.odawara-af.com/ja/enoura
うつわ菜の花
神奈川県小田原市南町1-3-12
0465-24-7020
utsuwa-nanohana.com
真鶴出版
神奈川県足柄下郡真鶴町岩217
manapub.com
道草書店
神奈川県足柄下郡真鶴町岩259-1
050-3692-3793
www.instagram.com/michikusa.books
本と美容室 真鶴店
神奈川県足柄下郡真鶴町真鶴338-2
080-4625-9138
www.instagram.com/manazuru_book.hair
取材・文:中川 滋 写真:吉澤健太 編集:OCEANS編集部















