本稿では『なぜ金融の勝者はいつも同じ顔ぶれなのか 教養としての金融市場』(鹿子木健/講談社+α新書)から抜粋し、見えないリスクとの向き合い方を考えます。

知らないリスクが、最も危険である

人は、知っているリスクには意外と耐えられます。価格が上下すること、一時的に含み損が出ること、評価額が減る可能性があること。これらは不快ではありますが、想像の範囲内です。覚悟もできる。「そういうこともある」と頭で理解し、感情をなだめる余地があります。

しかし、人を本当に壊すのは、想定の外にあったリスクです。あり得ないと思い込んでいた下落。起こるはずがないと信じて疑わなかった連鎖的な破綻。専門家が「確率はきわめて低い」と断言していた出来事が、現実として立ち上がってくる瞬間。

こうした局面では、損失の大きさそのものよりも、思考が奪われることのほうが致命的になります。なぜなら、人はそこに備えていないからです。準備していない事態に直面したとき、人は判断を失い、動けなくなり、あるいは本来なら取らなかった行動を取ってしまう。その連鎖が、資産だけでなく人そのものを壊していきます。

金融の世界では、リスクはしばしば「数字」で管理されます。確率、標準偏差、想定最大損失。しかしこれらはすべて、「過去に起きたこと」を前提に組み立てられています。問題は、市場が壊れるとき、過去と同じ形では壊れないという点です。

2008年のリーマン・ショックの直前、多くの専門家は同じ言葉を繰り返していました。「住宅価格が全米で同時に下落することは考えにくい」「リスクは分散されている」「極端な事態も、すでに織り込まれている」。

それらは、無責任な楽観論ではありませんでした。過去のデータに基づき、理論的には筋の通った説明でした。しかし問題は、その前提が一つ崩れた瞬間、すべてが同時に無力化される構造にあったことです。

想定外だったのは、事態そのものではありません。想定が、全員ほぼ同じ方向を向いていたことでした。結果は、よく知られている通りです。彼らが間違えたのは、計算ではありません。知らないリスクが存在する可能性を、織り込んでいなかったことです。

知られていないリスクは、姿を持ちません。名前も与えられず、数字にもならず、統計の項目にも現れない。そうしたものは、人の意識の外側に追いやられやすい。結果として、それは「存在しないもの」のように扱われてしまいます。

そして皮肉なことに、最も安全だと信じられてきた場所ほど、そうした想定外のリスクが顔を出します。

「国が支えているから問題は起きない」「長い歴史の中で安定してきた」「専門家が危険性は低いと言っている」。こうした言葉が重なっていくほど、人は警戒を解いていきます。しかし、警戒が解けるということは、同時に備えも薄くなるということです。

リスクが小さいから見えないのではありません。見えないほどに、語られなくなったとき、初めてそれは危険なものになります。

不安は、不安として現れる。疑念は、売買として噴き出す。これは、市場が危険だからではありません。知らないリスクが可視化されやすい構造を持っているからです。

知らないリスクの本当の危険性は、損失そのものではありません。人の判断力を、一瞬で奪うことです。想定外の出来事が起こると、人は考えることをやめます。理性ではなく、恐怖が意思決定を支配する。そしてその瞬間、市場は残酷さを剥き出しにします。

ここで伝えたいのは、「リスクを全部知ることはできない」という事実です。だからこそ重要なのは、知らないリスクが必ず存在する前提で、耐えられる準備をすることです。

予測するのではない。回避するのでもない。生き残れるように設計する。それが、投資世界におけるリスクとの向き合い方です。

金融危機は、なぜ繰り返されるのか

金融危機は、予測できなかったから起きるのではありません。むしろ、その逆です。

「もう理解した」「今回は違う」「このモデルなら大丈夫だ」。これらの言葉が繰り返されるようになったとき、市場は最も危険な状態に入ります。

危機の前には、必ず安心があります。それも、生半可な安心ではありません。専門家が揃って語り、メディアが後押しし、理論が整備され、数字が保証する安心です。

リーマン・ショック前夜も、まさにそうでした。住宅ローンは細かく分散され、証券化され、世界中にばらまかれていた。リスクは個別に見れば小さく、統計上も管理されているように見えました。「一部が壊れても、全体には影響しない」、そう説明されていました。

しかし実際には、リスクは消えていなかった。ただ、誰にも見えない形にまとめられていただけです。見えないものは、恐れられません。恐れられないものは、備えられません。

金融危機とは、リスクが消えた瞬間ではなく、リスクが信じられなくなった瞬間に起こります。誰もが「これは安全だ」と思ったとき、誰もが同じ方向に動き始めたとき、市場は均衡ではなく、脆弱な一体化の状態に入る。そこに、ほんの小さな衝撃が加わります。

金利の変化。一社の破綻。一国の判断ミス。あるいは、想定していなかった為替の動き。すると、分散によって制御できているはずだったリスクが、一本の構造として連結していたことが判明します。連鎖は、人の判断が追いつかない速度で進みます。

忘れてはならないのは、金融危機が「異常な出来事」ではないという事実です。危機は、市場が壊れた結果ではありません。市場がうまく機能しすぎた結果として起こります。

効率化、最適化、安定化。これらが行き着く先に、「全員が同じ前提を信じる状態」が生まれます。その瞬間、市場は脆くなる。為替市場でも、この構造は何度も確認されています。

固定相場制が維持できると信じられた国、通貨防衛が可能だと市場が信じた瞬間、中央銀行の力が絶対だと思われたとき。そこに疑念が入った瞬間、価格は爆発的に動く。価格は制御を失います。スイスフランショックは、その最も純粋な形でした。

スイスフランショックは、「市場は約束を破らないが、参加者が当然視していた前提までは守られない」ことが、一瞬で露わになった出来事でした。

2015年、スイス国立銀行は長く維持してきた対ユーロの上限政策を、事前予告なく放棄しました。その結果、為替市場では一瞬で流動性が消え、価格は連続的に成立せず、多くの取引が成立不能となりました。

この出来事が示しているのは、約束が破られたのではなく、守られる前提を信じていた側がそもそもの構造を誤認していた、という事実です。「もう想定外はない」「理論は完成した」「リスクは管理できている」。これらの言葉が増えたときこそ、危機は水面下で準備されています。

だから金融危機は、形を変えながら繰り返されてきました。なぜなら、人間の過信が消えることはないからです。問題は予測が外れたことではありません。人が、予測できる範囲に世界を押し込めたことです。

危機を防ぐ方法はありません。ただし、壊れ方を限定することはできる。その違いが、退場するか、生き残るかを分けます。市場とは、人間が安心した瞬間に、最も危険になる場所なのです。

[次回は、プライベートバンクや銀行再編から垣間見える“金融の本音”を探っていきます。]


出典元:
『なぜ金融の勝者はいつも同じ顔ぶれなのか 教養としての金融市場』(鹿子木健/講談社+α新書)

一日10兆ドル以上と、日々天文学的な数字の取引がされている金融市場。金融市場を知ることは、世界の仕組みを知ることだ! 本書を読んでも、これから有望な金融商品を知ることはできないが、もっと大切な「世界基準のものの見方」を知ることができる。金融市場はある意図をもってつくられ、そして歴史上、数多くの大危機を乗り越えながらさらなる拡大を続けてきた。危機の度に多くの者が市場から退場させられたが、必ず勝ち残ってきた者たちもいる。勝ち残ってきた者たちとはどのような者だったのか。じつは彼らにはある共通の思考法があった。

(記事掲載にあたり本文の一部を修正しています)