2019年に金融庁が公表した、金融審議会「市場ワーキング・グループ」の報告書をきっかけとして注目された「老後2,000万円問題」は、老後資金への不安を一気に社会へ広げました。報告書が参照した高齢夫婦無職世帯の平均的な収入と支出では、毎月約5万円の不足が生じ、それが20〜30年続けば1,300万〜2,000万円ほど不足するという試算です。もちろん必要な金額は、住まいや家族構成、生活水準によって人それぞれです。それでも「2,000万円」というフレーズは、老後を考える際の象徴的な目安として定着しました。
この出来事が印象的だったのは、多くの人が「そんなに必要なのか」と驚いたことです。私たちは老後を考えるとき、どうしても「いくらあれば安心なのか」という具体的な数字を求めがちです。2,000万円なのか、それ以上なのか。公的年金はいくら受け取れるのか。NISAを活用してどこまで資産を増やせばいいのか。将来に備える資産を国だけに頼らず、自ら形成することが以前にも増して重視されています。
そこで参考になるのが、個人による退職資金づくりが早くから生活に組み込まれてきた米国の視点です。
いま米国を見ると、「老後のためにいくら貯めるか」という問いの、さらに先にある変化が起きています。十分な資産を築いて仕事を完全に辞めることだけが、リタイアの唯一の姿ではなくなりつつあるのです。そこで重要になるのが、「働くかどうか、どのように働くかを自分で選べる」という発想です。
老後資金を「自分でつくる」ことが前提の米国
米国で暮らしていると、退職後に備えて自分で資産を準備することが、日常の中に深く組み込まれていると感じます。
米国にもソーシャルセキュリティという公的年金制度があります。しかし米社会保障庁自身が、ソーシャルセキュリティは退職後の唯一の収入源として設計されたものではないと説明しています。公的年金に加えて、現役時代から自ら資産を形成していくことが老後設計の重要な柱になっています。
その代表例が確定拠出年金の「401(k)」です。従業員が給与の一部を積み立て、勤務先によっては企業側も拠出しながら、退職後に向けて資産を形成していきます。
2026年、401(k)で従業員本人が給与から拠出できる年間上限が2万3,500ドルから2万4,500ドルへ引き上げられました。プランが認めている場合、50歳以上が利用できるキャッチアップ拠出の上限も7,500ドルから8,000ドルへ拡大しています。また、60〜63歳には2025年から通常より大きなキャッチアップ拠出枠が設けられました。
若いうちから積み立てるだけでなく、退職が視野に入る50代、60代になってからも資産形成を加速できる余地を広げる変更です。退職の直前まで働き、資産形成を継続するという考え方を、制度自体が後押ししているわけです。
401(k)は、米国の企業が従業員に提供する確定拠出型の退職年金制度です。給与の一部を個人の口座に積み立て、投資信託などで運用します。Traditional 401(k)では、給与から税引前で拠出するため、拠出額がその年の連邦所得税の課税対象から原則として除外されます。運用益への課税も、原則として引き出すまで繰り延べられます
「働くか、引退するか」の二択ではなくなった
かつてリタイアといえば、長く続けてきた仕事を60代で辞め、その後は仕事をせずに暮らす姿が典型的でした。しかし現在の米国では、「働き続ける」「完全に引退する」の二択ではなく、その間の働き方を想定する人も少なくありません。
米Employee Benefit Research Institute(EBRI)の2026年調査では、将来退職する予定がある現役労働者の74%が、退職後にも仕事をする予定だと回答しています。一方で、すでに退職した人のうち、退職後に実際に収入を得る仕事をしたことがある割合は31%にとどまります。
調査では、現役労働者が想定するリタイアと、実際の退職者の経験との間に大きな差があることがわかります。とはいえ、今と同じように働き続けたいというわけではありません。半数近くは少しずつ仕事から離れることを想定しています。
こうした働き方は「段階的リタイア(Phased Retirement)」と呼ばれます。週5日勤務を週3日に減らす、責任の重いポジションを退いてパートタイムに切り替える、あるいはコンサルタントやフリーランスとして得意分野の仕事を続ける、といったスタイルです。
ただし、段階的リタイアを想定していても、実際にその通りに働けるとは限りません。興味深いのは、人々が一定の年齢に達したら「完全引退する」という二者択一ではなく、その間の働き方も想定している点です。
なぜ、退職後も働き続けるのか
大きな動機の一つは、もちろん経済的な理由です。EBRIの調査でも、理由として「自由に使えるお金を得たい」「貯蓄を取り崩したくない」といった項目が並びます。インフレが続き、平均寿命が延びるなかでは、退職後に必要となる資金の総額も膨らみます。数年でも長く働いて給与収入を得られれば、それだけ老後資産を取り崩し始める時期を先送りできます。
ただ、理由はお金だけではありません。仕事には、仕事そのものを楽しむことに加え、人とのつながり、社会との接点や役割をもたらす面もあります。毎日フルタイムで働くのはもう望まない。けれど、世の中から完全に切り離されたいわけでもない。そう考える人にとって、週に2〜3日だけマイペースに働くバランスは心地よい選択肢になります。
AARPが2024年10~11月に行った調査では、2025年に仕事上の変更を予定している50歳以上の就業者のうち、フルタイムからパートタイムへの移行を予定する割合が、前年調査の4%から12%に増えています
こうなると、老後設計は単なる「目標資産額の達成ゲーム」ではなくなってきます。65歳で完全引退するために5,000万円を貯めるのか。それとも手元に3,000万円を確保したうえで、無理のない好きな仕事を週2日続けるのか。通帳の数字だけを見れば前者のほうが豊かに映るかもしれません。しかし、本人が後者の生活に充実感を覚えるなら、どちらが豊かな老後なのかは資産の多さだけでは測れません。
数字の先にある、働き方を選べる自由
「老後2,000万円」という言葉がこれほど響いた背景には、長寿化が進むなかで最後まで生活を守り切れるのかという不安がありました。公的年金だけに頼り切れない時代において、現役時代から投資や貯蓄に励む意義は大きいと言えます。
日本でも企業に65歳までの雇用確保が義務付けられ、70歳までの就業機会確保も努力義務となりました。2026年度からの国の方針でも、働く意欲のある高齢者が年齢にかかわらず活躍し続けられる環境の整備が掲げられました。2026年4月には、「在職老齢年金」の支給停止の基準額が月65万円へと引き上げられています。シニア層が働き続けることを、制度の側から後押しする流れが強まっています。
とはいえ、日本で定年後も働くというと、「年金だけでは足りないから」「生活のために働かざるを得ない」というイメージがまだ強いかもしれません。
そこで視点を変えてみましょう。「老後2,000万円」が投げかけたのは、老後に向けて自分で備える必要性でした。しかし、資産形成のゴールは2,000万円、3,000万円という数字を達成することだけではないはずです。
ある程度の経済的な基盤を築けば、「嫌な仕事に縛られ続けなくていい」「心から興味のある仕事を選べる」といった選択肢が生まれます。そう捉えると、資産形成の目的も少し違って見えてきます。
働かなければ生活できない状態から、働くかどうかやどう働くかを自分で決められる状態へ近づくこと。米国で変化しつつあるリタイア観は、「老後2,000万円」という数字にとらわれがちな私たちに、何のためにお金を準備するのかという本質的な問いを投げかけています。
■参照元
金融審議会 「市場ワーキング・グループ」報告書 の公表について
U.S. Social Security Administration「Understanding the Benefits」
Internal Revenue Service「401(k) limit increases to $24,500 for 2026, IRA limit increases to $7,500」
Employee Benefit Research Institute / Greenwald Research「2026 Retirement Confidence Survey」
EBRI / Greenwald Research「2026 RCS Fact Sheet #2: Expectations About Retirement」
AARP Research「Money Is Still a Driver of Job Change Among Older Workers」
厚生労働省「新たな『高年齢者等職業安定対策基本方針』を策定しました」
※本記事は情報提供を目的としたものであり、特定の金融商品への投資を勧誘・推奨するものではありません。投資判断はご自身の責任で行ってください。

