「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」(夏目漱石『草枕』)。そんな世の中に、生成AIが急速に揺らぎを起こしている。昨日までもてはやされていたものが、明日には陳腐なものに変わっている。そんな激しい時代を生き抜くために、私たちは何を学び、何を手放せばよいのだろうか。本連載では、各分野のフロントランナーに、30~50代のビジネスパーソンへ向けた「大人のリスキリング」の金言を聞く。「Come full circle(原点に戻る)」。49歳から英語を学び直し、現在は年間50本以上の英語インタビューを手がける編集記者の森英信氏自らのキャリアをそんな言葉で表す。465点だったTOEICスコアは905点にまで伸びた。自動通訳が進化し、言葉の壁は急速に低くなっているいま、あえて英語を学ぶ意味はどこにあるのだろうか。森氏に英語をどう学び、実践へ移し、仕事の幅を広げてきたのかを訊いた。
20年越しに、もう一度英語を学ぶ
森氏が最初に英語の壁に突き当たったのは、米ボストンでの取材だった。1997年、Apple製品や関連技術が一堂に会する「Macworld Expo」で、一度Appleを離れていたスティーブ・ジョブズが同社に戻り、基調講演に登場した。Mac専門誌の編集記者として現地を訪れていた森氏はこう振り返る。
英語のできる同僚と一緒に取材しましたが、ブースを回っても、その人がいないと詳しく聞けなくて、もどかしかった。帰国後にTOEICを受けてみましたが、思うような点数ではなく、そのまま続きませんでした。本格的に学び直しを始めたのは、それから20年以上経った2018年、49歳の時です。子どもが成長して外国語大学を目指したことが、もう一度英語に向き合うきっかけになりました。もともと、一次情報に直接触れたいという思いはずっと残っていました。テックの情報は米国から来ることが多いので、英語が使えれば取材できる範囲が広がる。スマートフォンの学習アプリが充実し、以前より学びやすい環境が整ったことも背中を押しました。
仕事をしながらどのように英語学習を続けたのだろうか。森氏は、すき間時間の活用と、短いフィードバックの積み重ねが鍵だったと語る。
移動中や待ち時間はいつも学習アプリを使っていました。SNSを見たりゲームをしたりしていた細切れの時間を、そのまま学習に変えたのです。アプリでは問題を解くと予測スコアが更新され、苦手な問題も出てくる。自分の現在地を確かめて、次にどうするかを考えるまでの間隔をできるだけ短くしました。TOEICも定期的に受験してスコアを記録し、その間はアプリで短いフィードバックのサイクルを回していました。続けられたのは意志の強さというより、仕組みを作ることができたからだと思います。

仲間とつながり、学びの途中を外へ開く
挫折しそうになったとき、森氏を支えたのはゆるやかな学びのつながりだったという。
学習が進んで伸び悩みも感じた時、TOEICの勉強会を探して参加しました。目的はそれぞれ違いますが、同じように学んでいる人たちと話せる場です。自分より学習歴の長い人から勉強法や解き方のコツを教えてもらったり、問題を出し合ったりしました。日本では実際の過去問は公開されていませんが、韓国では過去の公開問題を収録した問題集が販売されていて、それを取り寄せて解いている人がいました。そういう情報は、ひとりで調べていても出てきません。自分が勉強会をホストする時には問題を解説するので、人に説明できるところまで理解する必要がある。これも学びを深めました。仲間との学習は、ひとりで黙々と勉強するのとは違う良さがありました。
とはいえ、英語力を身につけても実践の仕事で使おうと踏み出せない人も多い。どうして一歩進めたのだろうか。
実は、2019年にTOEICで800点を超えた時、Facebookに投稿したんです。特に仕事を探すためではなく、自分の中ではひとつの到達点だったので、報告のつもりでした。するとその投稿を見た知人から、グローバル企業のSNS運用の仕事をしないかと依頼されました。英語でユーザーとやり取りをする仕事ですが、英語力だけで声がかかったわけではありません。それまでの編集の経験があり、そこに英語が加わったことで違う価値が生まれたのです。今でもその仕事は続いています。自分が持っているスキルや関心を人に伝えることでチャンスが訪れるのだなと感じています。
完璧を待たず、実践の場へ踏み出す
英語でのインタビューには高度な英語力が求められるだろう。森氏は、初めての英語インタビューの仕事をこう振り返る。
TOEICが900点を超えた2021年に、英語インタビューの求人を見つけて応募しました。実際にひとりで取材することになったとき、オンライン英会話で20~30回ほど模擬インタビューをしました。先生に経営者役になってもらい、本番を想定して練習しました。不安はありましたが、どうしても伝わらなければチャットに文字おこしをしてもらうバックアップも用意して臨みました。TOEICで土台をつくり、インタビューをすると決めてからは英会話で実践に備えることで力もついたと思います。目的が変われば、学び方も変える必要があります。

完璧になるのを待つのではなく、準備とバックアップを整えたうえで、実践の場へ踏み出した。
新しい仕事のフィールドへ踏み出すことに、失敗する怖さはなかったのだろうか。森氏は、むしろ今いる場所にとどまることへの危機感を指摘する。
私はやってみて失敗することや、新しい場所へ行くことより、今いるところにとどまり続けるほうが怖いと思うのです。今やっていることが陳腐化したらどうするのか、自分はどこで力を発揮できるのだろうかと昔から考えてきました。同じ場所で自分よりもすごい人はいくらでもいます。だったら、いま持っているものに何を掛ければ、私はフィールドで選ばれる存在になれるのか。英語もそのスキルのひとつでした。早めに新しい市場に入ることができれば、そこに新しいチャンスが生まれるのです。
経験に英語を掛けあわせ、仕事のフィールドを広げる
英語を身につけるために投じた時間や費用は、結果として「稼ぐ力」にどうつながったのだろうか。森氏は、学びを選ぶ際の視点についてこう語る。
英語で取材するようになってからは、話す相手も扱う領域も広がりました。私の場合、英語案件では日本語案件より報酬が2〜5割ほど高くなるケースがあります。学びに投じた時間やお金は、結果として稼ぐ力につながりました。AIで言語の壁を越えられるようになってきているとはいえ、需要は残り続けます。これから新しく学ぶなら、いま持っているスキルとどういう掛け算ができるか、その学びで仕事の選択肢や条件が変わるかを考えるといいのではないでしょうか。ゼロから始める学びは時間がかかりますが、すでにあるものと組み合わせれば、早い段階から実践でき、自分だけの強みとなりますから。

学んだスキルを、仕事の中で使い続ける
身につけた英語力を、現在はどのように維持しているのだろうか。森氏は、英語力の維持を目的とした学習はしていないという。
年間50本以上の英語取材が続いているので、いまは仕事そのものが英語力の維持になっています。取材の準備でその分野の英語資料を読み、インタビューで使う質問を組み立てて音読する。扱う領域が増えるにつれて、語彙も自然に増えていきます。これまで250件以上英語インタビューをしてきましたが、そこで得た最大の報酬は、世界には驚くほど優れた人や、大胆に挑戦する人が大勢いると知ったことです。さまざまな国の人と直接話すことで、好奇心も知識の範囲も飛躍的に広がりました。「Come full circle」は、数多くの英語インタビューのなかで、創業者たちが自らの歩みを語るときに繰り返し口にした言葉です。いろいろな道を経て、原点に戻るという意味ですが、同じ場所に戻るのではなく、螺旋を登るように以前より少し上昇している。今の自分が1997年のボストンにいたら、あの時とは違う記事が書けたでしょうね。
原点へ戻っても、そこに立つ自分は以前と同じではない。これまでの経験に新しい学びを重ねることで、フィールドは広がっていく。私たちは、学びによって螺旋のようにゆるやかに登り続けることができるのだろう。
【プロフィール】
森 英信(もり・ひでのぶ)
編集記者、株式会社アンジー代表。1995年から編集記者として、テクノロジー、エンタープライズIT分野を中心に取材・執筆に携わる。2005年に編集プロダクションを設立し、プレイングマネージャーとして現在も取材・制作の現場に立つ。2021年から英語による取材を開始し、海外のスタートアップ経営者やテクノロジー分野の専門家などへの英語インタビューを年間50本以上手がける。AIを編集業務に取り入れ、取材・編集プロセスの再構築にも取り組んでいる。
取材・文:池田美樹 写真:松田麻樹 編集:Pen編集部